東京に出てきてから何度転居したことだろう。
昔を懐かしく思い出しながら数えてみたら、
今の住まいが9回目の「我が家」ということになるようだ。
夫の転勤につきあったとか、長時間通勤から逃れるためとか、
どんどん増える家財道具に押しつぶされないようにとか、
その時々には、やむを得ない事情があったようにも思うが、
結局のところ一つのところに長居ができない質なのかもしれない。
「終の棲家」のつもりで入居した今の住まいも、2年を過ぎると、
だんだん飽きてきて、引っ越しを考えたりする。
「一所懸命」という言葉があるように、私たちは、同じところに
とどまって頑張るという思いにとらわれすぎていないだろうか。
住みにくければ住みやすいところへ引っ越すという「根無し草」的
発想の方が気持が楽になることもある。
学校でのいじめが問題になっているが、いじめられたらいじめ返す
のではなく、引っ越して転校するというのも、選択肢としてあっても
いいのではないだろうか。
「孟母三遷」ではないが、子どもが暮らしやすい町というのもあるだろう。
今、地方都市や東京近郊では、空き家が大きな問題になっている。
「住み慣れた我が家で最後まで」という福祉のスローガンは、
「最後」の後に、住み慣れた家を残すことになってしまった。
老朽化して危険だ、見知らぬ人が入り込んで治安が悪くなる・・等々、
近所の迷惑的存在になっているという。
かくいう私のところも、夫のところも、両親が亡くなって、空き家が
残されている。自分が育ち、両親が長く住んだ家を処分するのは忍びない。
かといって、住む人もなく、近所の迷惑になるのも悲しい。
歳をとれば住まいに求めるものも変わってくる。歳とともに自分に合った
住まいに引っ越しながら、最後には何も残さない。
そんな老後もいいのではないかと思うこの頃である。