現実の町、ヴィスビーは、おしゃれなレストランやお土産物屋の美しい家々の間に、
過去の繁栄の遺産である廃墟が点在する不思議な町です。
過去と現在、繁栄と衰退が同居するこの町を人々は愛し、多くの観光客を呼び寄せています。
ヴィスビーに唯一現存する教会のわきに、80段ほどの石の階段があり、そこを登ると
時代を超えたヴィスビーの全景を見ることができます。
その階段の中ほどに、しっかりとしたつくりの古いベンチが置いてあります。
まるで、登るときも降りるときも、急がずに休んで行けと言わんばかりに・・・。
ヴィスビーでは、時間がゆっくりと流れていくような気がします。
「ニルスのふしぎな旅」という童話を読んだことがありますか。
スウェーデンの南部を、がちょうの背に乗って旅するニルスは、
ある日、高い城壁で囲まれた荘厳な街にたどり着きます。
繁栄を極めたヴィネタの街、しかしそれは100年に一度だけ姿を
現すというまぼろしの街です。
何か一つのものを売ることができなければ、再び海の底に沈んで
しまうのです。
商人たちはニルスに豪華な品を次々とすすめます。
しかし、お金のないニルスは何一つ買うことができません。
浜辺に落ちていたコインを探して振り返ったとき、街は彼の前から
姿を消してしまっていました。
ニルスは街を救えなかった後悔の念にかられます。
しかし、やがて知るのです。
栄光も衰退も永遠ではないことを。
高い城壁を築いて、自分たちを周りから隔絶したとき、衰退はすでに
始まっていたのです。
さて、モデルになった街は、現在どんな時間が流れているのでしょうか?
・・・それは、次回のお楽しみに♪
ヨーロッパに行くと、どんな小さな村にも不釣り合いなほど立派な教会がある。
私たちは教会をみると、天にそびえるゴチックの尖塔や複雑なタンバンに目を奪われる。
しかし、教会はこの世の天国であり、その中で祈る人に天国を感じさせるための様々な
仕掛けが施してある。
その代表的なものが光である。
バラ窓やステンドグラスは、ただ眺めるためにあるのではなく、差し込む光を赤や青の
幻想的な光彩に変えて、床や椅子や、時にはキリストやマリアの像に、天国の絵画を
描き出す。
それは一瞬の幻のようであり、それゆえに人々は天国の存在を知るのであろう。
現代の科学は、レンズとC-MOSを通じて、一瞬の幻を電気信号に変え、パソコン上に
永遠の絵画として定着する。
それは、神聖なものを独り占めしてしまったような罪悪感と満足感に満たされる時でもある。
東京に出てきてから何度転居したことだろう。
昔を懐かしく思い出しながら数えてみたら、
今の住まいが9回目の「我が家」ということになるようだ。
夫の転勤につきあったとか、長時間通勤から逃れるためとか、
どんどん増える家財道具に押しつぶされないようにとか、
その時々には、やむを得ない事情があったようにも思うが、
結局のところ一つのところに長居ができない質なのかもしれない。
「終の棲家」のつもりで入居した今の住まいも、2年を過ぎると、
だんだん飽きてきて、引っ越しを考えたりする。
「一所懸命」という言葉があるように、私たちは、同じところに
とどまって頑張るという思いにとらわれすぎていないだろうか。
住みにくければ住みやすいところへ引っ越すという「根無し草」的
発想の方が気持が楽になることもある。
学校でのいじめが問題になっているが、いじめられたらいじめ返す
のではなく、引っ越して転校するというのも、選択肢としてあっても
いいのではないだろうか。
「孟母三遷」ではないが、子どもが暮らしやすい町というのもあるだろう。
今、地方都市や東京近郊では、空き家が大きな問題になっている。
「住み慣れた我が家で最後まで」という福祉のスローガンは、
「最後」の後に、住み慣れた家を残すことになってしまった。
老朽化して危険だ、見知らぬ人が入り込んで治安が悪くなる・・等々、
近所の迷惑的存在になっているという。
かくいう私のところも、夫のところも、両親が亡くなって、空き家が
残されている。自分が育ち、両親が長く住んだ家を処分するのは忍びない。
かといって、住む人もなく、近所の迷惑になるのも悲しい。
歳をとれば住まいに求めるものも変わってくる。歳とともに自分に合った
住まいに引っ越しながら、最後には何も残さない。
そんな老後もいいのではないかと思うこの頃である。