何か信じるものをもつ人
持たないか分からない人
人による保証を信じる人
目を開けて信じる人
目を閉じて信じる人
沢山の伝統がある
日本には神様もいる
仏を信じる人も
古からも新しくも
更に世界には様々な学問と伝統
祈り
どのように考える
どのように感じる
そしてどのように生きる
先日の知人とのやり取りで私が
書いていたことの一部抜粋(少し修正)です
誰もが大切にしたいことがあると思います。
それを大切にすること、その決心をしてそのことに専心すること。その決心は、いつしたのだろうか。
子供の頃、決心したことをに影響を受けている人もいる。それほど、決心するとは大きなことだ。
しかし今、大きくなって、自分で自由に選べるようになった時、心に決めて決心することは、私たちの人生に影響を及ぼす。
一体何を決心しただろうか。
それとも、何に決心が出来ずにいるのだろうか。
何かをいつまでも傷つけ、放置しているのだろうか。
間違っていると分かっていても決心できていないこともある。
決心したら、上手くいくとかどうかではなく、進むしかないのだ。
失敗しても、出来る限りのことをして、学び、耐え、進むしかない。
大切にしたいことを大切にすることは、いかに難しいことか。
現実の町、ヴィスビーは、おしゃれなレストランやお土産物屋の美しい家々の間に、
過去の繁栄の遺産である廃墟が点在する不思議な町です。
過去と現在、繁栄と衰退が同居するこの町を人々は愛し、多くの観光客を呼び寄せています。
ヴィスビーに唯一現存する教会のわきに、80段ほどの石の階段があり、そこを登ると
時代を超えたヴィスビーの全景を見ることができます。
その階段の中ほどに、しっかりとしたつくりの古いベンチが置いてあります。
まるで、登るときも降りるときも、急がずに休んで行けと言わんばかりに・・・。
ヴィスビーでは、時間がゆっくりと流れていくような気がします。
「ニルスのふしぎな旅」という童話を読んだことがありますか。
スウェーデンの南部を、がちょうの背に乗って旅するニルスは、
ある日、高い城壁で囲まれた荘厳な街にたどり着きます。
繁栄を極めたヴィネタの街、しかしそれは100年に一度だけ姿を
現すというまぼろしの街です。
何か一つのものを売ることができなければ、再び海の底に沈んで
しまうのです。
商人たちはニルスに豪華な品を次々とすすめます。
しかし、お金のないニルスは何一つ買うことができません。
浜辺に落ちていたコインを探して振り返ったとき、街は彼の前から
姿を消してしまっていました。
ニルスは街を救えなかった後悔の念にかられます。
しかし、やがて知るのです。
栄光も衰退も永遠ではないことを。
高い城壁を築いて、自分たちを周りから隔絶したとき、衰退はすでに
始まっていたのです。
さて、モデルになった街は、現在どんな時間が流れているのでしょうか?
・・・それは、次回のお楽しみに♪
今回はお知らせです。 表記の勉強会を、年間を通して行ないます。 4月から始めますが、途中からでも参加は大丈夫です。
ご自身の課題を何とか乗り越えようとしておられる方は、 参加をご検討ください。 4月は23日の火曜日夜を予定しています(基本的に、毎月第四火曜日夜) 出席確認は、開催の前の週の土曜日正午までにお願いしております。
詳細は、
http://www.tmaweb.net/academy/regularsemi/semi.html?i=8
にあります。
分かってきたことがなかなか止められない、それは決して変なことではありません。 共に学びを深めていく時間を持てたらと考えております。
先日に続き、別の感情の意味を考えてみたい。
今回は、「怒り」という感情だ。
この感情には、手を焼いている人も多いのではないだろうか。この感情が強く人に向けば危険と分かっているので、多くの人はそれを止めたくないと感じつつも止めることに力を注ぐ。また、この感情が反対に自分に向けば、これもとても危険なことは明らかである。
では、この感情がない世界とはどの様な世界だろうか。
今、私はキーボードを叩いているが、この手の上に人が荷物をドンと置いたら、私はきっと怒るだろう。同じ状況で、当然怒りとは異なった感情が生じる人もいるだろうが、それは個人差だ。
怒りを感じた時に、私は別にその荷物をおいた人に殴りかかっていくとは思えないし、怒鳴りつけるともあまり思わないが、不快感を示すだろう。そのことによって、私は自分の主張をするし、自分の身を安全に保とうとするだろう。
怒りは、その感情に囚われない限り、といってもそれが難しいと言われるのだが、自分やそのほかの何か大切なものを守るために存在していると思われる。
私はかつて、この感情を随分と苦手としてきた。よって、古い友人は私のことを「短気だ(った、と過去形にしたい今の私がいるが)」という。
性格はそうは変わらない。しかし、その性格に振り回されなくなることはできる。これも心理療法の取組みの一つだと考えている。
先日、感情の意味について少し書いた。
更に、もう少し書き加えてみたい。
恐怖という感情の意味だ。恐怖は、危機へのアラームとして大切な感情だ。
私たちは、このアラームが機能しているがゆえに、危険な状況において自らを守るように行動するのである。最近、電車でも線路に落ちないような工夫がされている。例えば、酔っ払った人はこのアラームが適切に機能しないがゆえに、線路に落ちたりするのだろう。
しかし、感情は時に不適切な対応の学習を促してしまうらしい。
例えば、過去に怖い思いをしたことを、今でも過剰に評価してしまい、行動の制限がかかってしまうことなど、まさにその一例であろう。
具体例としては、過去に暴力にさらされて怯えた経験を持つ人が、今は安全が保障されていたとしても暴力を受けるかもしれないと感じて、人と会うことが出来ないといったこともあげられよう。
感情自体は、大切なメッセージを私たちに伝えてくれているが、その感情を感じることの評価、対処は時に私たちの苦しみが続くようになってしまっている場合がある。
まさに、そこに心理療法が介入することが求められているところであろう。
生物学的視点に立つと、感情には意味がある。 少し、『不安とうつの統一プロトコル』を参考に整理してみると、 悲しみや抑うつといった感情は、意気消沈させ、憂うつ、絶望、自分は欠陥人間かといった感覚を生じさせます。 この感情は、喪失などの時に生じる自然なもので、活動レベルを落として、しっかりと悲しみを感じ、癒されて元気を取り戻すための時間を確保し、気持ちの整理を行なうのに役立つ。
私たちには、苦手に感じる感情があります。 苦手というのは、その感情に囚われて振り回されてしまい、自分を混乱の世界に連れて行ってしまったり、その感情が出てくると「この感情があるといけない」と考えてもっと囚われてしまったりするものです。
感情は、意味があるのは分かりますが、なかなか友達にはなれません。 ただ、少しずつでもその意味を理解して、感情についての知識を増やして、様々な対処の選択肢を増やして、調整できるように取り組むことで随分と変化していきます。
また、他の感情についても少しずつ紹介していきます。
お正月に、2歳になったばかりの男の子に会いました。
彼のバーバと私はとても似ているらしく、「これ(私)誰?」と尋ねると、
嬉しそうに「バーバ!」と言います。
その前に、しかっり人気を得られるプレゼントを贈っています。
おもちゃで遊んでいた彼に、同じように尋ね同じように嬉しそうに「バーバ!」と
答えるのを確かめた直後、、、
彼の前に彼のバーバと並んで「これ(私)だあれ?」と いたずら心で訊いてみました。
彼は並んだ二人を見て困ってちょっと固まってしまった後、黙って顔を背け
おもちゃと遊び始めました。
彼のいたずらバーバが、「さて誰でしょう?」と彼を困らせようとするのを止めました。
こんなに小さな心も、大きな(?)混乱から心を守る工夫や努力をするのだなあと感動しました。
否認や回避という防衛が生まれる瞬間に立ち会ったことになるのでしょうか。
「心を守ることができる」ことはとても大切ですが、たくさんの小さな心が過剰に防衛を
機能 させずに過ごせますようにと願います。
心の誕生は3歳とも言われますが、それ以前の様々な体験の中で心は育まれ心の形が作られて
いくのだなあとつくづく学びました。