今年も師走に入りました。もう少しで今年も終わりに近づいています。
学会シーズンも終わり、幾つかの発表をさせて頂きました。様々な意見ももらい、また考えをまとめる機会をいただけたことは幸いです。
11月には、マインドフルネス・フォーラムの3日間ワークショップにも参加させてもらいました。
アメリカで痛みの治療として、現代医療ではなんともならない患者さんたちへの援助として取り組み続けてきているカバットジンの来日に際して、近く学びをさせていただいたことは有益でした。基本は「愛」です。ただ、「愛」は愛着ではありませんし、慈悲の暖かさもそれを追い求める集中の厳しさと併せ持っていると思います。
私も例年同様、今月にマインドフルネスの1日WSを行ないます。また少し、成長出来ていると思います。
私たちは(いや、「私は」ですね)、沢山のことに囚われます。そして、その囚われによって本当に自分や人を追い詰めてしまいます。苦しいことがなくなるのではない、苦しいことを楽にしなければならないというのではない、ただ、本当に苦しい時にでも、苦しいことに囚われないでいられるようになるだろうか、そのためのひたすらの取組みです。過度の喜びや楽しみにも、囚われますね。
先日もある心理士の友人と、東北支援について議論をしました。私は、どこまで囚われなくなりうるのだろうか、これも継続の結果のみが知っているのでしょう。どうあらねばならない、ということではありませんので。
少し、抽象的な文が続きました。私は、どうも内面的な検討を好むようです。ただ、外的刺激のコントロール、スキル訓練等の有効性、行動の変化による内面の変化についても、理解が深まっているように感じています。
また、その辺り、(もう少し具体的に)書いていきたいとおもっております。
ヨーロッパに行くと、どんな小さな村にも不釣り合いなほど立派な教会がある。
私たちは教会をみると、天にそびえるゴチックの尖塔や複雑なタンバンに目を奪われる。
しかし、教会はこの世の天国であり、その中で祈る人に天国を感じさせるための様々な
仕掛けが施してある。
その代表的なものが光である。
バラ窓やステンドグラスは、ただ眺めるためにあるのではなく、差し込む光を赤や青の
幻想的な光彩に変えて、床や椅子や、時にはキリストやマリアの像に、天国の絵画を
描き出す。
それは一瞬の幻のようであり、それゆえに人々は天国の存在を知るのであろう。
現代の科学は、レンズとC-MOSを通じて、一瞬の幻を電気信号に変え、パソコン上に
永遠の絵画として定着する。
それは、神聖なものを独り占めしてしまったような罪悪感と満足感に満たされる時でもある。
私たち人間は、時に様々なものにとらわれる。
その多くは、考えや感情、自分自身だ。
厄介な人だ、問題だ、という反論もあるかもしれない。
しかし、過去を振り返って、あの時は随分とあのことに囚われていたなぁといった、
思いを持つ人もいるのではないだろうか。まさに、私たちが自分に囚われていた証だ。
そして、自然はそのままにある。国破れて山河在り・・・などと言われるように。
私たちのこころもそのままに自然と共にある、はずだ・・・。
しかし、私たちはその状態を、簡単には手に入れられない。
何を通してその自然の感覚に触れられるのか、人により様々である。
かつて、私たちは様々な自然を敬い、あらゆるものに神性を感じてきた。
本当の苦難に耐えている人は、必ず変化が訪れることを信じて欲しい。
自然は、絶えず変化し続けている。同じものは一つもない。
終わりないかのように、長く感じるトンネルに、必ず終わりと新たな始まりがある。
多くの人が、そのことを真摯な取り組みを続ける中で示してくれた。
今の心を自然のあるがままに感じながら、それが変化していくことを感じていこう。
気がつくと、今、既に目指したゴールに立ち、先に向かって進もうとしている自分がいる。
このようなスタンスは、認知行動療法においては、マインドフルネスが新しい哲学と
アプローチを投げかけてくれている。
タイトルを考えながら、同様の本があったことを思いだした。 「時間・空間・物質」ワイル著の優れた本であった。 他にも、心理関係の本があった気もしているのだが…。
私たちは、何に救われるのか、何に癒されるのか、 終わらない取り組みです。
私たちは、生々しく生きている存在として、「食べ、飲み、寝て、夢見て、考える」。そして時にそれらに「囚われ、支配される」 さて、心をどれほど豊かに、かつ柔らかくするのだろうか。
近年、認知行動療法CBTにおいても、マインドフルネスが唱えられることが 多いが、その中の理論的背景としての道教の存在が理解できてきた。 儒教と道教を背景として、日の沈む国(日本)において発展した 思想に裏付けられた雄大な川の流れに触れた。
今日は、私にとっては精神的な休みの日になった。本当に感謝。 水の流れに触れた。子供がきっかけをくれた。 水は、様々なものを流し去る。 そして、自然は流されたものを受け止め、浄化する。 生きとし生ける物は終のないゆらぎの中で支えられている。
私もだが、あなたも支えられている。 ただ、それをリアルに感じることは、はるかに難しいのだろう。
また、語り合い、深めることを通して心の深淵の旅を進めたい。
『妊活』
この言葉を最近インターネットや雑誌で目にしました。
「妊娠・出産について正しい知識を身につけ、
自分にあったライフプランを立てること」です。
婚活の次は妊活なのですね。なるほど!
女性として、妊娠・出産は人生の中で大きなライフイベントの一つです。
女性は様々な場面で人生の変化が訪れますよね。
妊娠となれば仕事をお休みしたり、辞めたりしなくてはなりません。
夫婦にとって、妊娠はとても嬉しいことだけど、でも色々な不安や
思いも出てきたり・・・
とても繊細な女心です。
妊活が上手くいかない時には、悲しくなったり泣きたくなったり、
パートナーとの関係性がギクシャクしたり、自己嫌悪になったり・・・
とても複雑な思いをもたれるかと思います。
妊娠をまだ先と思っている時も、既に考えている時も、活動を終えた時も、
どんな時でも自分自身を大切に労ってあげられたら、どうでしょうか。
私自身、そんな風に過ごせたらいいな、過ごしたいなと思っています。
自分の人生ですものね ![]()
そうしなかった自分を責め苦しむクライエントさんの心に触れると、
私の心に「できなかったとしても、あなたは悪くない」という思いが
湧き上がり、それを伝えたくなってしまいます。
喉まできているその思いを横に置いて、
「そうできたら良かった!そうしたかった!ってね」と言葉にしました。
すると、クライエントさんは、
「何でそうできなかったんだろうと『後悔』かな。」
「気づいただけでも、理想の自分に近づいたかな」
「もうちょっとで、あともうちょっとで、、、、。」
「今度同じような状況になったら、きっとそうすると思う」
焦りや不安で固まって身動き取れなかったクライエントさんの中に、
冷静に行動できる自分を信じる自己肯定感がゆっくりと立ち上っていく場面に
立ち会うことができました。
私は、またもや危うく邪魔をしてしまうところでした。
最近、V.フランクルのことをテレビで見ました。私もとても好きな精神科医の1人です。
『夜と霧』というとても有名な本の著者ですので、ご存知の方も多いかと思います。
フランクル自身が精神科医になったのも、「何で人は生きて死ぬんだろう」という疑問があったからだと言っていました。同様の疑問を持ち続けておられる方は、本当に多いのではないでしょうか。
ましてや、このHPに来ておられる方であれば。
前述の本は、過去に幾度か読んでいましたが、はっきりとは覚えていなかったのですが、フランクルは、アウシュビッツに囚われている中で、同じ囚人仲間が「私は人生に求めることがもはやない」と言って生きることを諦めつつあった時に、「人生があなたに求めているものがある」と言ったとのことでした。
私たちが人生に何かを求めようとしている時には、求めているものを得たとしても更に求め続け、終わりなき満たされない感覚に囚われてしまうかもしれません。しばしば、「こころの栄養って何?」ということを話題にしますが、心が本当に満たされるって、本当に素晴らしいことですよね。
フランクルが言っているのは、生きることの意味は?ということに真正面から向き合って、その意味を引き出そうとする姿勢だと思います。そうしなければならないということではないのでしょう。
ただ、この疑問を持つ人は、考え続けるのでしょう。生きることの意味、生きていることの意味、正解は人によって違うのでしょう。相談でお会いする多くの人たちが、苦悩の中でこのことの理解を深め、取り組んでいかれる姿を見ています。
それは、私自身にも問われています。そして、私自身も自分のこととして考え、体験を続けています。
少し、抽象的な話かもしれません。とても有名な本について、強く思い出す機会をもらったので、書いてみました。
私たちは、何を所有しているのでしょうか。
家族について検討する中で、改めて考えていました。
結婚している夫婦は、相手を所有しているというのでしょうか。家族は、情緒的支援を受ける場所なので、どうしても人と人の間の境界線が揺らぎます。
子供は、親が所有するものなのでしょうか。虐待の認定数もうなぎのぼりです。これは、現代社会で生きる私たち一人一人の課題です。
時々考える人はいないでしょうか。一万年前、私たちが「自分の土地」と考えて必死に守っているところは誰の土地だったのだろうか、と。
私たちの身体の状態や私たちのおかれている環境と関わらず、心は自由だと、多くの人が昔から言っていますし、『夜と霧』の著者のフランクルも言ったのだと思います。
一体、私たちは何を所有できるのでしょうか。
多分、何か大切に持っています。持てるものがあります。
今回は、あえて疑問、という形で書きました。
このようなことを考える中で、揺れることはあるかもしれませんが、「何もない」と無気力に、または「どうしようもない」と終わりのない混乱の中に、いつづけたくないとも思います。
東京に出てきてから何度転居したことだろう。
昔を懐かしく思い出しながら数えてみたら、
今の住まいが9回目の「我が家」ということになるようだ。
夫の転勤につきあったとか、長時間通勤から逃れるためとか、
どんどん増える家財道具に押しつぶされないようにとか、
その時々には、やむを得ない事情があったようにも思うが、
結局のところ一つのところに長居ができない質なのかもしれない。
「終の棲家」のつもりで入居した今の住まいも、2年を過ぎると、
だんだん飽きてきて、引っ越しを考えたりする。
「一所懸命」という言葉があるように、私たちは、同じところに
とどまって頑張るという思いにとらわれすぎていないだろうか。
住みにくければ住みやすいところへ引っ越すという「根無し草」的
発想の方が気持が楽になることもある。
学校でのいじめが問題になっているが、いじめられたらいじめ返す
のではなく、引っ越して転校するというのも、選択肢としてあっても
いいのではないだろうか。
「孟母三遷」ではないが、子どもが暮らしやすい町というのもあるだろう。
今、地方都市や東京近郊では、空き家が大きな問題になっている。
「住み慣れた我が家で最後まで」という福祉のスローガンは、
「最後」の後に、住み慣れた家を残すことになってしまった。
老朽化して危険だ、見知らぬ人が入り込んで治安が悪くなる・・等々、
近所の迷惑的存在になっているという。
かくいう私のところも、夫のところも、両親が亡くなって、空き家が
残されている。自分が育ち、両親が長く住んだ家を処分するのは忍びない。
かといって、住む人もなく、近所の迷惑になるのも悲しい。
歳をとれば住まいに求めるものも変わってくる。歳とともに自分に合った
住まいに引っ越しながら、最後には何も残さない。
そんな老後もいいのではないかと思うこの頃である。
暑いですね。 まだ、梅雨明け宣言はされていませんよね。 無理せず、体調には気をつけてお過ごし下さい。 さて、今回は宣伝というのか、ご紹介なのですが、例年通り、この夏の集中講座を開催します。 9月15日(土)と9月16日(日)の二日間、10:00~16:00です。 認知行動療法って面白い、分かりやすいって感じてもらえると思います。 認知行動療法についてはそこから先も、じっくり取り組んで理解を深めると、その深さも感じていけるものですけどね。 下に、今回の講座案内ページのリンクを貼っておきます。 http://www.tmaweb.net/academy/regularsemi/semi.html?i=5 検討したい方も、お問い合わせください。 玉井仁


















