今年の学会シーズンは、暑い中終わりました。
例年は、11月頃まであるのですが、今年は何故に夏季に集中したのだろう?
昨日、私も今年の最後の発表を日本カウンセリング学会にてさせて頂きました。タイトルは、
失敗への対応から見る自己/他者理解
ー概念的理解の為の枠組みの提案ー
とさせていただきました。
しかし、学会にて私が臨床に取り組む中で大切だと感じてきたこと、気がついたことを共有する中で、私にとって学びが深かったことをうまく概念化し、参加頂いた先生方にお伝えすることの難しさを感じました。
私は失敗をよくする人間なので、「自戒のためか」とのコメントには、納得してしまいました。
恥ずかしいことばかりですが、ここで止まっては益々よろしくないと、様々な形で研鑽を続けていきたいと改めて考えております。
自分のことを見つめる作業は、一生かけても終わりませんね。
このところ、アメリカの精神科医のヤーロムの著書を乱読していて、共感することしきりで、自らの学びを問い直しています。
新学期に入り、様々な新しい出会い、状況にいる人も沢山いることと思います。
ご自愛ください。
先日、認知療法学会における発表について、簡単に書かせてもらいました。
今回の発表にて行った思索的な内容を、ポスターにて発表するということの難しさを感じました。
ある知人が、「玉井が取り組んでいる実証的な部分とのバランスを知っていれば分かるかもしれないけど、そうでないと、この発表は偏って取られたり、理解してもらい難いよね。」・・・然り。
「これは」、とおもった瞬間に、それがとらわれになっていくことを体験しました。
加えて、昨日は日本新臨床学会にて、発表をさせてもらいました。
被虐待事例から観察される,衝動の生じるところ
-クライエントの内的世界と外的現実世界の「乗りかえ」に着目することの有効性-
被虐待者に対するの心理療法、トラウマ治療の経過を報告しながら、私にとって関心のあった「衝動って何だ!」ということについて検討を深めたく、衝動がどの様に生じていくのか、拒絶するものと曖昧なものとの関係性の検討を深めたいと発表しましたが、その部分は取り上げられず終わりました。
しかし、発表をさせてもらうことで、思い込みが見つけられたり、自分の不勉強な部分がよく分かったりと恥ずかしいことは沢山ありますし、関心のあったLemppの概念についての理解が深まったことも合わせて、沢山の勉強をさせてもらいます。
参加いただいた先生方、ご意見を頂いた先生方、また、ご自身の取組みを共有頂いた先生方に感謝です。
臨床を続けながら、日常とは異なった形で沢山の方々に自分の振り返りや考えを表現させて頂く機会を得て、その体験からまた沢山学びを続けて、もう一歩,もう一歩とより良い臨床のために研鑽をしていきたいと考えています。
子どもの頃『このクラスのために頑張りましょう』と先生に言われても、クラスのためって?なんで?と 思っていた私・・・自分個人が褒められたり、認められるためなら頑張るけど・・・
私はつい先日まで、子どもはみんながそう思っているものだと思い込んでいました。
しかし、違ったのです。この思い込みを持ったまま大人になった私は、教室で『クラスのために頑張りましょう』と子どもにおっしゃっている先生に『先生は子どもの頃はクラスのために頑張ったことはないですよね?』と言ってしまいました。すると先生は、きょとんとされて『大好きな担任の先生のために頑張って良いクラスにしようと思っていました』と・・・
本当に驚きました!! そんなまじめな子どもが存在していたとは!!
人と話してみると驚きや発見があります。自分の思い込みに気づかされる事も。
人はそれぞれの経験を経て、ひとつの物事に対しての考え方も様々です。
今は、その違いを知れる事の多いカウンセラーという仕事が大好きです。
今週末、第4回アジア認知行動療法会議学術総会・第13回日本認知療法学会・日本行動療法学会 第39回大会の合同大会が行われます。
私、玉井も発表の予定です。
無意識を活かす認知行動療法に向けた考察
―メタファー、マインドフルネスを活用するための思索的整理-
Study for the Cognitive-Behavioral Therapy to Make Active Use of Unconsciousness
-Conceptual Support to Utilize Metaphor, Mindfulness-
というタイトルです。 認知行動療法は、どちらかというとエビデンスが重視されるので、私の発表のような 思索的な発表が許可されるのかの試みでしたが、無事に許可が出ております。
実際に、クライエントーセラピストの関係の中では、様々な感覚が訪れることもあり、 これは日常生活とは少し異なる部分かもしれません。
そのような様々な意識レベル、無意識など、測定しがたいものではありますが、 その存在が確認されているものについて、少し整理していきたいと考えております。少しでも、発表を見て頂いた方の参考になれば、そして私も勉強をさせてもらえればと考えております。
何か信じるものをもつ人
持たないか分からない人
人による保証を信じる人
目を開けて信じる人
目を閉じて信じる人
沢山の伝統がある
日本には神様もいる
仏を信じる人も
古からも新しくも
更に世界には様々な学問と伝統
祈り
どのように考える
どのように感じる
そしてどのように生きる
先日の知人とのやり取りで私が
書いていたことの一部抜粋(少し修正)です
誰もが大切にしたいことがあると思います。
それを大切にすること、その決心をしてそのことに専心すること。その決心は、いつしたのだろうか。
子供の頃、決心したことをに影響を受けている人もいる。それほど、決心するとは大きなことだ。
しかし今、大きくなって、自分で自由に選べるようになった時、心に決めて決心することは、私たちの人生に影響を及ぼす。
一体何を決心しただろうか。
それとも、何に決心が出来ずにいるのだろうか。
何かをいつまでも傷つけ、放置しているのだろうか。
間違っていると分かっていても決心できていないこともある。
決心したら、上手くいくとかどうかではなく、進むしかないのだ。
失敗しても、出来る限りのことをして、学び、耐え、進むしかない。
大切にしたいことを大切にすることは、いかに難しいことか。
東京メンタルヘルス・カウンセリングセンター及び同セクシャリティセンターにおいて
活動を行っている潮田英子(心理カウンセラー)が、週刊現代(6月15日発売号)に
大人のセックスについて寄稿しています。
現実の町、ヴィスビーは、おしゃれなレストランやお土産物屋の美しい家々の間に、
過去の繁栄の遺産である廃墟が点在する不思議な町です。
過去と現在、繁栄と衰退が同居するこの町を人々は愛し、多くの観光客を呼び寄せています。
ヴィスビーに唯一現存する教会のわきに、80段ほどの石の階段があり、そこを登ると
時代を超えたヴィスビーの全景を見ることができます。
その階段の中ほどに、しっかりとしたつくりの古いベンチが置いてあります。
まるで、登るときも降りるときも、急がずに休んで行けと言わんばかりに・・・。
ヴィスビーでは、時間がゆっくりと流れていくような気がします。
「ニルスのふしぎな旅」という童話を読んだことがありますか。
スウェーデンの南部を、がちょうの背に乗って旅するニルスは、
ある日、高い城壁で囲まれた荘厳な街にたどり着きます。
繁栄を極めたヴィネタの街、しかしそれは100年に一度だけ姿を
現すというまぼろしの街です。
何か一つのものを売ることができなければ、再び海の底に沈んで
しまうのです。
商人たちはニルスに豪華な品を次々とすすめます。
しかし、お金のないニルスは何一つ買うことができません。
浜辺に落ちていたコインを探して振り返ったとき、街は彼の前から
姿を消してしまっていました。
ニルスは街を救えなかった後悔の念にかられます。
しかし、やがて知るのです。
栄光も衰退も永遠ではないことを。
高い城壁を築いて、自分たちを周りから隔絶したとき、衰退はすでに
始まっていたのです。
さて、モデルになった街は、現在どんな時間が流れているのでしょうか?
・・・それは、次回のお楽しみに♪
弊社カウンセラーの齋藤正志が著書を発売いたしました!
『子育てがみるみる楽しくなる魔法の「ほめポイント」』教員経験のあるカウンセラーだからこその内容になっております。
学校現場でも好評をいただいておりますので、興味のある方はぜひお読みになってみてください!