最近、V.フランクルのことをテレビで見ました。私もとても好きな精神科医の1人です。
『夜と霧』というとても有名な本の著者ですので、ご存知の方も多いかと思います。
フランクル自身が精神科医になったのも、「何で人は生きて死ぬんだろう」という疑問があったからだと言っていました。同様の疑問を持ち続けておられる方は、本当に多いのではないでしょうか。
ましてや、このHPに来ておられる方であれば。
前述の本は、過去に幾度か読んでいましたが、はっきりとは覚えていなかったのですが、フランクルは、アウシュビッツに囚われている中で、同じ囚人仲間が「私は人生に求めることがもはやない」と言って生きることを諦めつつあった時に、「人生があなたに求めているものがある」と言ったとのことでした。
私たちが人生に何かを求めようとしている時には、求めているものを得たとしても更に求め続け、終わりなき満たされない感覚に囚われてしまうかもしれません。しばしば、「こころの栄養って何?」ということを話題にしますが、心が本当に満たされるって、本当に素晴らしいことですよね。
フランクルが言っているのは、生きることの意味は?ということに真正面から向き合って、その意味を引き出そうとする姿勢だと思います。そうしなければならないということではないのでしょう。
ただ、この疑問を持つ人は、考え続けるのでしょう。生きることの意味、生きていることの意味、正解は人によって違うのでしょう。相談でお会いする多くの人たちが、苦悩の中でこのことの理解を深め、取り組んでいかれる姿を見ています。
それは、私自身にも問われています。そして、私自身も自分のこととして考え、体験を続けています。
少し、抽象的な話かもしれません。とても有名な本について、強く思い出す機会をもらったので、書いてみました。
私たちは、何を所有しているのでしょうか。
家族について検討する中で、改めて考えていました。
結婚している夫婦は、相手を所有しているというのでしょうか。家族は、情緒的支援を受ける場所なので、どうしても人と人の間の境界線が揺らぎます。
子供は、親が所有するものなのでしょうか。虐待の認定数もうなぎのぼりです。これは、現代社会で生きる私たち一人一人の課題です。
時々考える人はいないでしょうか。一万年前、私たちが「自分の土地」と考えて必死に守っているところは誰の土地だったのだろうか、と。
私たちの身体の状態や私たちのおかれている環境と関わらず、心は自由だと、多くの人が昔から言っていますし、『夜と霧』の著者のフランクルも言ったのだと思います。
一体、私たちは何を所有できるのでしょうか。
多分、何か大切に持っています。持てるものがあります。
今回は、あえて疑問、という形で書きました。
このようなことを考える中で、揺れることはあるかもしれませんが、「何もない」と無気力に、または「どうしようもない」と終わりのない混乱の中に、いつづけたくないとも思います。
東京に出てきてから何度転居したことだろう。
昔を懐かしく思い出しながら数えてみたら、
今の住まいが9回目の「我が家」ということになるようだ。
夫の転勤につきあったとか、長時間通勤から逃れるためとか、
どんどん増える家財道具に押しつぶされないようにとか、
その時々には、やむを得ない事情があったようにも思うが、
結局のところ一つのところに長居ができない質なのかもしれない。
「終の棲家」のつもりで入居した今の住まいも、2年を過ぎると、
だんだん飽きてきて、引っ越しを考えたりする。
「一所懸命」という言葉があるように、私たちは、同じところに
とどまって頑張るという思いにとらわれすぎていないだろうか。
住みにくければ住みやすいところへ引っ越すという「根無し草」的
発想の方が気持が楽になることもある。
学校でのいじめが問題になっているが、いじめられたらいじめ返す
のではなく、引っ越して転校するというのも、選択肢としてあっても
いいのではないだろうか。
「孟母三遷」ではないが、子どもが暮らしやすい町というのもあるだろう。
今、地方都市や東京近郊では、空き家が大きな問題になっている。
「住み慣れた我が家で最後まで」という福祉のスローガンは、
「最後」の後に、住み慣れた家を残すことになってしまった。
老朽化して危険だ、見知らぬ人が入り込んで治安が悪くなる・・等々、
近所の迷惑的存在になっているという。
かくいう私のところも、夫のところも、両親が亡くなって、空き家が
残されている。自分が育ち、両親が長く住んだ家を処分するのは忍びない。
かといって、住む人もなく、近所の迷惑になるのも悲しい。
歳をとれば住まいに求めるものも変わってくる。歳とともに自分に合った
住まいに引っ越しながら、最後には何も残さない。
そんな老後もいいのではないかと思うこの頃である。
暑いですね。 まだ、梅雨明け宣言はされていませんよね。 無理せず、体調には気をつけてお過ごし下さい。 さて、今回は宣伝というのか、ご紹介なのですが、例年通り、この夏の集中講座を開催します。 9月15日(土)と9月16日(日)の二日間、10:00~16:00です。 認知行動療法って面白い、分かりやすいって感じてもらえると思います。 認知行動療法についてはそこから先も、じっくり取り組んで理解を深めると、その深さも感じていけるものですけどね。 下に、今回の講座案内ページのリンクを貼っておきます。 http://www.tmaweb.net/academy/regularsemi/semi.html?i=5 検討したい方も、お問い合わせください。 玉井仁
やわらかい認知行動療法、というタイトルをつけてみた。
”やわらかい”といった言葉に違和感を感じる人もいるかもしれません。
私は、やわらかさってとても大切だと思います。
「こうでなきゃだめ」「~であるべき」といったかたくなで、とらわれている考えに追い込まれている心、苦しそうですよね。心がとても硬くなってしまっているように感じます。その考えが正しい考えであったとしても、硬い心は何も受け付けなくなってしまい、心に栄養も届かなくなってしまいそうですよね。「仕事はしっかり間違いなく遂行すべき」といった考えも、「時間は守るべき」「人には思いやりを持って接すべき」といった考えもいいものですし、多くの人がそれは大切って思うものかもしれませんが、それらを使って自分や人を追い詰めてしまうと苦しくなりますよね。
「もうどうでもいい」「どうしようもない」といったあきらめで満ちた、虚無的な状態も、苦しいですよね。これは、心のケアなんてもう必要ない、どうでもよいといったように、心を捨ててしまうかのような状態かもしれませんよね。忙しいという言葉の「忙」という字も、心をなくすと書くんですよね。
私は、やわらかさって、この硬い心と心を無くした状態の合間に存在するのかな、って考えていました。
心に栄養を届ける為に、心を柔らかくすること、それが心理療法で行っていることだと思います。硬いと栄養をもらっても、なかなか受け取ることが出来なくなりますし、受け取るはずの心をなくしてしてしまうと、受け取る場所、感じる場所がなくなります。(後者は、ニヒリズムとも繋がりますよね)認知行動療法も最終的には自分で心に栄養を与えることができるようになる、そのための取組みです。
だから、やわらかい心を目指す、認知行動療法として、やわらかい認知行動療法と言ってみました。しばしば、認知行動療法っていうと、硬く、表面的で、技法的で、ハウツーを学ぶように感じる人もいるようです。そんなことはありません、ということを表明してみたかったのです。
今後時折、やわらかい認知行動療法について、書いてみたいと思います。
父を想う故郷はいつ行ってもいい。生まれ育ったあの山や川。 俗世のしがらみの中で、あえいでいる自分がなんだか他人ごとのように小さく見える。
それくらい山は大きく伸びやかである。
平成4年、74才で父は逝った。戦争で満州に行き、死線を越え生まれ故郷である
“秋田、鹿角(かづの)”の山村に戻った。
次男として生まれた父は、親からもらったわずかばかりの田と畑と山を耕し、
辛酸をなめながら終えんの地としてそこで生きた。
自然との厳しい闘いを誰のためにとおもいはせた時、それは子や妻のためであり、
家族のための何者でもなかったはずである。
ことに父は杉の木を愛でた。「山が欲しい!何としても杉の木を植えたい!」が口癖だった。
山を買い雑木を切り払い、杉が育つように山を作った。根がつくまでに5.6年かかる。
背丈位になってからも、まだまだ刈払いが続く。気の遠くなるような作業を山を相手に
やり通したのである。
育ちゆく杉の木を仰ぎながら、「よしよし!これで大丈夫だ!」と言って満足げに煙草を
ふかしている姿が昨日のように想い出される。
自分の分身のように愛でた杉の木も今は太い幹となり林となって真っ直ぐに空に向かっている。
時代も変わり、杉の木の金銭価値は無いに等しいが、土にしがみ杉の木に生きる夢を
たくした父の一本の筋なす川が、私のこれまでのカウンセリング観や人間観につながる
何かをもらたしてくれている気がする。
私は過去に随分と長い間、嗜癖問題、つまり依存症の回復援助に取り組み、学んできた。
ふと、このことについて考える機会があったので書いておく。
依存症とは、空っぽな内側を満たそうとする必死の行動であり、それがないと耐えられないもののように感じるものに突き動かされ、本当の自分が求めているものを得られない状態に陥っていることである。
その痛々しいまでの求めてしまう行動を、”渇望”とも呼ぶ。
しかし、依存することで獲得して内側を満たしたと思ったものは、すぐにこぼれ落ち、決してその空っぽな内側を満たすことがない。
過去の生育、様々な経験において、健全に自らを認められ、受け入れられ、満たされた感覚を持つ人は幸いである。しかし、過去にそのような経験が少なくとも、あるいは記憶になくとも、改めてそれを満たしていくことが出来ることは、決して楽なことではないが、多くの回復者の人たちの存在が語っている。
認知行動療法やその他の心理療法においても、その人が何を満たされてこなかったのか、どの様に自分を満たそうとして依存的な行動に走ってしまうのか、より馴染んだ依存行動を取ってしまいがちな自分を止め、それに代わっていくもの探しと対策、内側を満たしていく感覚を育てるべく、継続的に取り組んでいる。
これから、様々な情報を配信していきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
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