先日に続き、別の感情の意味を考えてみたい。
今回は、「怒り」という感情だ。
この感情には、手を焼いている人も多いのではないだろうか。この感情が強く人に向けば危険と分かっているので、多くの人はそれを止めたくないと感じつつも止めることに力を注ぐ。また、この感情が反対に自分に向けば、これもとても危険なことは明らかである。
では、この感情がない世界とはどの様な世界だろうか。
今、私はキーボードを叩いているが、この手の上に人が荷物をドンと置いたら、私はきっと怒るだろう。同じ状況で、当然怒りとは異なった感情が生じる人もいるだろうが、それは個人差だ。
怒りを感じた時に、私は別にその荷物をおいた人に殴りかかっていくとは思えないし、怒鳴りつけるともあまり思わないが、不快感を示すだろう。そのことによって、私は自分の主張をするし、自分の身を安全に保とうとするだろう。
怒りは、その感情に囚われない限り、といってもそれが難しいと言われるのだが、自分やそのほかの何か大切なものを守るために存在していると思われる。
私はかつて、この感情を随分と苦手としてきた。よって、古い友人は私のことを「短気だ(った、と過去形にしたい今の私がいるが)」という。
性格はそうは変わらない。しかし、その性格に振り回されなくなることはできる。これも心理療法の取組みの一つだと考えている。
先日、感情の意味について少し書いた。
更に、もう少し書き加えてみたい。
恐怖という感情の意味だ。恐怖は、危機へのアラームとして大切な感情だ。
私たちは、このアラームが機能しているがゆえに、危険な状況において自らを守るように行動するのである。最近、電車でも線路に落ちないような工夫がされている。例えば、酔っ払った人はこのアラームが適切に機能しないがゆえに、線路に落ちたりするのだろう。
しかし、感情は時に不適切な対応の学習を促してしまうらしい。
例えば、過去に怖い思いをしたことを、今でも過剰に評価してしまい、行動の制限がかかってしまうことなど、まさにその一例であろう。
具体例としては、過去に暴力にさらされて怯えた経験を持つ人が、今は安全が保障されていたとしても暴力を受けるかもしれないと感じて、人と会うことが出来ないといったこともあげられよう。
感情自体は、大切なメッセージを私たちに伝えてくれているが、その感情を感じることの評価、対処は時に私たちの苦しみが続くようになってしまっている場合がある。
まさに、そこに心理療法が介入することが求められているところであろう。
生物学的視点に立つと、感情には意味がある。 少し、『不安とうつの統一プロトコル』を参考に整理してみると、 悲しみや抑うつといった感情は、意気消沈させ、憂うつ、絶望、自分は欠陥人間かといった感覚を生じさせます。 この感情は、喪失などの時に生じる自然なもので、活動レベルを落として、しっかりと悲しみを感じ、癒されて元気を取り戻すための時間を確保し、気持ちの整理を行なうのに役立つ。
私たちには、苦手に感じる感情があります。 苦手というのは、その感情に囚われて振り回されてしまい、自分を混乱の世界に連れて行ってしまったり、その感情が出てくると「この感情があるといけない」と考えてもっと囚われてしまったりするものです。
感情は、意味があるのは分かりますが、なかなか友達にはなれません。 ただ、少しずつでもその意味を理解して、感情についての知識を増やして、様々な対処の選択肢を増やして、調整できるように取り組むことで随分と変化していきます。
また、他の感情についても少しずつ紹介していきます。
今年も師走に入りました。もう少しで今年も終わりに近づいています。
学会シーズンも終わり、幾つかの発表をさせて頂きました。様々な意見ももらい、また考えをまとめる機会をいただけたことは幸いです。
11月には、マインドフルネス・フォーラムの3日間ワークショップにも参加させてもらいました。
アメリカで痛みの治療として、現代医療ではなんともならない患者さんたちへの援助として取り組み続けてきているカバットジンの来日に際して、近く学びをさせていただいたことは有益でした。基本は「愛」です。ただ、「愛」は愛着ではありませんし、慈悲の暖かさもそれを追い求める集中の厳しさと併せ持っていると思います。
私も例年同様、今月にマインドフルネスの1日WSを行ないます。また少し、成長出来ていると思います。
私たちは(いや、「私は」ですね)、沢山のことに囚われます。そして、その囚われによって本当に自分や人を追い詰めてしまいます。苦しいことがなくなるのではない、苦しいことを楽にしなければならないというのではない、ただ、本当に苦しい時にでも、苦しいことに囚われないでいられるようになるだろうか、そのためのひたすらの取組みです。過度の喜びや楽しみにも、囚われますね。
先日もある心理士の友人と、東北支援について議論をしました。私は、どこまで囚われなくなりうるのだろうか、これも継続の結果のみが知っているのでしょう。どうあらねばならない、ということではありませんので。
少し、抽象的な文が続きました。私は、どうも内面的な検討を好むようです。ただ、外的刺激のコントロール、スキル訓練等の有効性、行動の変化による内面の変化についても、理解が深まっているように感じています。
また、その辺り、(もう少し具体的に)書いていきたいとおもっております。
私たち人間は、時に様々なものにとらわれる。
その多くは、考えや感情、自分自身だ。
厄介な人だ、問題だ、という反論もあるかもしれない。
しかし、過去を振り返って、あの時は随分とあのことに囚われていたなぁといった、
思いを持つ人もいるのではないだろうか。まさに、私たちが自分に囚われていた証だ。
そして、自然はそのままにある。国破れて山河在り・・・などと言われるように。
私たちのこころもそのままに自然と共にある、はずだ・・・。
しかし、私たちはその状態を、簡単には手に入れられない。
何を通してその自然の感覚に触れられるのか、人により様々である。
かつて、私たちは様々な自然を敬い、あらゆるものに神性を感じてきた。
本当の苦難に耐えている人は、必ず変化が訪れることを信じて欲しい。
自然は、絶えず変化し続けている。同じものは一つもない。
終わりないかのように、長く感じるトンネルに、必ず終わりと新たな始まりがある。
多くの人が、そのことを真摯な取り組みを続ける中で示してくれた。
今の心を自然のあるがままに感じながら、それが変化していくことを感じていこう。
気がつくと、今、既に目指したゴールに立ち、先に向かって進もうとしている自分がいる。
このようなスタンスは、認知行動療法においては、マインドフルネスが新しい哲学と
アプローチを投げかけてくれている。
タイトルを考えながら、同様の本があったことを思いだした。 「時間・空間・物質」ワイル著の優れた本であった。 他にも、心理関係の本があった気もしているのだが…。
私たちは、何に救われるのか、何に癒されるのか、 終わらない取り組みです。
私たちは、生々しく生きている存在として、「食べ、飲み、寝て、夢見て、考える」。そして時にそれらに「囚われ、支配される」 さて、心をどれほど豊かに、かつ柔らかくするのだろうか。
近年、認知行動療法CBTにおいても、マインドフルネスが唱えられることが 多いが、その中の理論的背景としての道教の存在が理解できてきた。 儒教と道教を背景として、日の沈む国(日本)において発展した 思想に裏付けられた雄大な川の流れに触れた。
今日は、私にとっては精神的な休みの日になった。本当に感謝。 水の流れに触れた。子供がきっかけをくれた。 水は、様々なものを流し去る。 そして、自然は流されたものを受け止め、浄化する。 生きとし生ける物は終のないゆらぎの中で支えられている。
私もだが、あなたも支えられている。 ただ、それをリアルに感じることは、はるかに難しいのだろう。
また、語り合い、深めることを通して心の深淵の旅を進めたい。
最近、V.フランクルのことをテレビで見ました。私もとても好きな精神科医の1人です。
『夜と霧』というとても有名な本の著者ですので、ご存知の方も多いかと思います。
フランクル自身が精神科医になったのも、「何で人は生きて死ぬんだろう」という疑問があったからだと言っていました。同様の疑問を持ち続けておられる方は、本当に多いのではないでしょうか。
ましてや、このHPに来ておられる方であれば。
前述の本は、過去に幾度か読んでいましたが、はっきりとは覚えていなかったのですが、フランクルは、アウシュビッツに囚われている中で、同じ囚人仲間が「私は人生に求めることがもはやない」と言って生きることを諦めつつあった時に、「人生があなたに求めているものがある」と言ったとのことでした。
私たちが人生に何かを求めようとしている時には、求めているものを得たとしても更に求め続け、終わりなき満たされない感覚に囚われてしまうかもしれません。しばしば、「こころの栄養って何?」ということを話題にしますが、心が本当に満たされるって、本当に素晴らしいことですよね。
フランクルが言っているのは、生きることの意味は?ということに真正面から向き合って、その意味を引き出そうとする姿勢だと思います。そうしなければならないということではないのでしょう。
ただ、この疑問を持つ人は、考え続けるのでしょう。生きることの意味、生きていることの意味、正解は人によって違うのでしょう。相談でお会いする多くの人たちが、苦悩の中でこのことの理解を深め、取り組んでいかれる姿を見ています。
それは、私自身にも問われています。そして、私自身も自分のこととして考え、体験を続けています。
少し、抽象的な話かもしれません。とても有名な本について、強く思い出す機会をもらったので、書いてみました。
私たちは、何を所有しているのでしょうか。
家族について検討する中で、改めて考えていました。
結婚している夫婦は、相手を所有しているというのでしょうか。家族は、情緒的支援を受ける場所なので、どうしても人と人の間の境界線が揺らぎます。
子供は、親が所有するものなのでしょうか。虐待の認定数もうなぎのぼりです。これは、現代社会で生きる私たち一人一人の課題です。
時々考える人はいないでしょうか。一万年前、私たちが「自分の土地」と考えて必死に守っているところは誰の土地だったのだろうか、と。
私たちの身体の状態や私たちのおかれている環境と関わらず、心は自由だと、多くの人が昔から言っていますし、『夜と霧』の著者のフランクルも言ったのだと思います。
一体、私たちは何を所有できるのでしょうか。
多分、何か大切に持っています。持てるものがあります。
今回は、あえて疑問、という形で書きました。
このようなことを考える中で、揺れることはあるかもしれませんが、「何もない」と無気力に、または「どうしようもない」と終わりのない混乱の中に、いつづけたくないとも思います。
暑いですね。 まだ、梅雨明け宣言はされていませんよね。 無理せず、体調には気をつけてお過ごし下さい。 さて、今回は宣伝というのか、ご紹介なのですが、例年通り、この夏の集中講座を開催します。 9月15日(土)と9月16日(日)の二日間、10:00~16:00です。 認知行動療法って面白い、分かりやすいって感じてもらえると思います。 認知行動療法についてはそこから先も、じっくり取り組んで理解を深めると、その深さも感じていけるものですけどね。 下に、今回の講座案内ページのリンクを貼っておきます。 http://www.tmaweb.net/academy/regularsemi/semi.html?i=5 検討したい方も、お問い合わせください。 玉井仁
やわらかい認知行動療法、というタイトルをつけてみた。
”やわらかい”といった言葉に違和感を感じる人もいるかもしれません。
私は、やわらかさってとても大切だと思います。
「こうでなきゃだめ」「~であるべき」といったかたくなで、とらわれている考えに追い込まれている心、苦しそうですよね。心がとても硬くなってしまっているように感じます。その考えが正しい考えであったとしても、硬い心は何も受け付けなくなってしまい、心に栄養も届かなくなってしまいそうですよね。「仕事はしっかり間違いなく遂行すべき」といった考えも、「時間は守るべき」「人には思いやりを持って接すべき」といった考えもいいものですし、多くの人がそれは大切って思うものかもしれませんが、それらを使って自分や人を追い詰めてしまうと苦しくなりますよね。
「もうどうでもいい」「どうしようもない」といったあきらめで満ちた、虚無的な状態も、苦しいですよね。これは、心のケアなんてもう必要ない、どうでもよいといったように、心を捨ててしまうかのような状態かもしれませんよね。忙しいという言葉の「忙」という字も、心をなくすと書くんですよね。
私は、やわらかさって、この硬い心と心を無くした状態の合間に存在するのかな、って考えていました。
心に栄養を届ける為に、心を柔らかくすること、それが心理療法で行っていることだと思います。硬いと栄養をもらっても、なかなか受け取ることが出来なくなりますし、受け取るはずの心をなくしてしてしまうと、受け取る場所、感じる場所がなくなります。(後者は、ニヒリズムとも繋がりますよね)認知行動療法も最終的には自分で心に栄養を与えることができるようになる、そのための取組みです。
だから、やわらかい心を目指す、認知行動療法として、やわらかい認知行動療法と言ってみました。しばしば、認知行動療法っていうと、硬く、表面的で、技法的で、ハウツーを学ぶように感じる人もいるようです。そんなことはありません、ということを表明してみたかったのです。
今後時折、やわらかい認知行動療法について、書いてみたいと思います。